ebins

北海道出身のエビンズです。

現在も会社員をしております。
50代もなかばを超えて、子供達の教育費の捻出で貯蓄もなくなり、今後の老後を考えるとなんとなく不安を感じる日々・・・
今まで深く考えず、流された生活で、現在に至っているポンコツオヤジです

今までの人生を反省して、今後の生活を有意義なものにしていきたい

同年代は将来に不安を感じる方達に前向きで明るい人生を感じていただけるブログ運営を行なって行きたいと考えております

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阪神優勝おめでとうございます オリックスの中島監督ってどんな方か調べてみます

2023年日本シリーズ優勝おめでとうございます
阪神の岡田監督は現役時代から知っていました。
(岡田・真弓・掛布・バースの時代ですよね)

私は、一方でオリックスの中島監督の現役時代を知らないで、どんな選手だったのかと疑問に思い調べてみました。

中島監督の現役時代は、4球団を渡り歩き、1軍の実働年数が29年という、鉄人キャッチャーでした。

一軍実働年数29年は、工藤公康と並ぶ、NPB歴代1位タイです。

中島は、阪急ブレーブス(現オリックス)、西武ライオンズ・横浜ベイスターズ・日本ハムファイターズでプレーしました。

引退後は、プロ29年間の経験と知識を活かし、コーチ監督を歴任しています。

2022年には、オリックスを日本一に導きました。

ています。

プロ入りの経緯

中島は、秋田県北秋田市の出身。

秋田県立鷹巣農林高校で野球部に入部。

高校2年の時に、秋季東北大会県予選で、準々決勝に進むが秋田高に敗退。

高校3年の時の甲子園県予選も、準々決勝で横手高に敗れる。

同年のNPBドラフト会議で阪急ブレーブスから3位指名を受け、入団した。

阪急・オリックス時代

1989年:プロ3年目から、中島は、正捕手の座を掴む。

球界随一の強肩もさることながら、打撃センスにも優れていた。

俊足で、盗塁にも果敢に挑戦し、走攻守すべての面を持ち合わせていた。

一時は「メジャーリーグに一番近い捕手」とまで言われた。

この年、球団名が阪急ブレーブスからオリックス・ブレーブスに変わった。

チーム名がオリックス・ブルーウェーブに変更された1991年以降、正捕手の座を守っていた。

1990年代の中盤:7年目以降は、打撃が徐々に低迷した。

他の捕手と併用されることが増え、出場試合数も減った。

それでも、持ち前の強肩は顕在だった。

1995年:プロ9年目には、100試合以上に出場し、11年ぶりのパ・リーグ優勝に貢献した。

1996年:プロ10年目には、仰木監督の下で、リーグ連覇と19年ぶりの日本シリーズ制覇を成し遂げた。

1997年:プロ11年目のシーズンオフにFA宣言し、メジャーリーグ挑戦を表明した。

一時は、アナハイム・エンゼルスへの入団が決まりかけた。

ただ、エンゼルスが提示した条件が、3番手捕手としてのマイナー契約であったため、メジャーリーグ移籍を断念した。

西武と日ハムが中島の獲得に動き、最終的には、西武ライオンズに移籍した。

西武ライオンズ時代

西武時代、長年西武一筋で信頼感のある伊東から正捕手の座を奪うことはできなかった。

中島が、西武2年目、プロ13年目に入団してきた松坂大輔専用の捕手として起用されることで出場機会を得た。

ただ、中島の打撃成績の低迷に加えて、西武が若手捕手育成の方針を取ったため、中島の出場機会は減っていった。

2002年:西武5年目、プロ16年目は、大半を二軍で過ごした。

その年のオフに、2対2の交換トレードで、横浜ベイスターズへ移籍した。

横浜ベイスターズ時代

中島は、2003年:プロ17年目の1年間だけ、横浜でプレーした。

前年まで正捕手だった谷繁元信がFAで中日へ移籍しており、あとがま争いのし烈な正捕手争いが行われた。

中島は、開幕戦こそマスクをかぶったが、その後、怪我や打撃不振で結果を残せなかった。

その年のオフに、金銭トレードで、日本ハムファイターズに移籍することとなった。

日本ハムファイターズ時代

2004年:日本ハム1年目は、3番手捕手であり、出場機会が少なかった。

2005年:日本ハム2年目は、1・2番手捕手の怪我や不調もあり、捕手として最多出場となった。(79試合に出場)

2006年:日本ハム3年目は、守護神マイケル中村との相性の良さから、試合後半を任される「抑え捕手」の地位を確立した。

先発出場は、ほぼなかったが、2005年に続いて、捕手として最多の79試合に出場した。

2007年:日ハム4年目、プロ21年目から、中島は、選手兼バッテリーコーチとなった。

この年以降は、選手として一軍登録から抹消された時は、コーチ専任で一軍に帯同した。

選手として1軍でプレーする機会は減った。

2009年以降、引退するまで、出場機会は、毎年10試合以下になった。

出場機会は減ったが、1・2番手が故障や不調の際には、度々、1軍の試合に出場していた。

メインはバッティングコーチにシフトしていったものの、毎年、1軍出場を途切れることなく継続した。

結果、2015年に、NPBの1軍実働年数記録29年を達成し、当時、工藤公康が持っていた記録に並んだ。

中島聡の人物像と面白エピソード

愛称は「サメ」。理由は目が細く、顔が鮫に似ているから。

2004年9月:横浜から日ハムに移籍した翌年に、モデルの中嶋愛(当時、制野愛)と結婚した。

中嶋愛は、横浜球団のキャンペーンガールをしていた。

中島の強肩は、元ヤクルト捕手の古田も一目置いていた。

社会人からドラフトで指名候補になった際に、「中嶋選手のいるオリックスだけは遠慮したい」と語っていた。

1990年9月20日、中島のオリックス時代、投手の星野が投げたすっぽ抜けたカーブを中島が右手で捕球した。

当然、中島は、左手にキャッチャーグローブをしているので、素手で捕球したことになる。

さらに、強肩中島による、星野への返球は、明らかに星野の球速を上回っていた。

球場内および両軍のベンチが、失笑に包まれたこのシーンは、プロ野球珍プレー集などで、何度も繰り返し放送された。

素手キャッチのあと、ベンチに帰った星野は「素手で取るなよ。ミットが動いてなかったぞ!」と機嫌を悪くしていた。

中嶋は「ミットが届かなかったんです」と、誤魔化した。

以上が、中島聡さんの現役実績と面白エピソードでした。

実は、すごい選手だったのですね
感動です!

コメント

  1. sexx より:

    yandanxvurulmus.fO6aTxq2PZpi

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